噛めば噛むほど、脳が活性化する?

集中力が高まったり、身体能力が向上したり、噛むことの効用について見聞きしたことのある人も多いことでしょう。実は、『噛むことが脳波に影響する』ことを科学的に証明した研究が、2008年に発表されています。今回は、その研究チームのリーダーだった自然科学研究機構・生理学研究所の柿木隆介教授(現在は名誉教授)に、噛むことで脳波に起こる変化について詳しくお話を伺いました。

「噛むと脳が活性化する」と、以前からいわれていますが、どうしてなのでしょうか?

正直にお話すると、「噛むと脳が活性化する」、そのメカニズムについては正確にはわかっていません。考えられている説の一つには、歯の根っこの周りを覆い、ガムのように非常に薄い食物でも鋭敏に感知する薄い膜「歯根膜」からの情報が、脳と脊髄の中間にある脳幹という部位に入って大脳に影響を与える、というものがあります。
日常生活のなかで、運転中の眠気覚ましや、勉強や仕事で集中力を高めようとガムを噛む方もいらっしゃると思います。テレビなどで、野球選手やサッカー選手が試合中にガムを噛んでいるのを見たことがある方も多いことでしょう。これはおそらく、噛むことで瞬間的な運動能力を高められることを経験的に知っているからです。ある研究では、「ガムを噛んだ後に短距離走をすると、タイムが短縮した」という報告もありました。
ただ、噛んだ後の具体的な効果を科学的に検討した研究は、これまでありませんでした。そこで私たちは、噛むと脳に変化があるのか、「P300」という脳波を使って科学的に検証したのです。

「P300」とは、どのような脳波なのでしょうか? また実験でどんなことがわかったのでしょうか?

「P300」は、なんらかの感覚刺激(聴覚・視覚・触覚など)を受け、認知反応として現れる脳の電気活動のことです。16~25歳の健常者では0.25~0.3秒程度で反応し、脳が活性化している状態だとさらに反応時間は短くなります。逆に、年をとったり認知症になったりすると、反応が遅くなって0.5~0.6秒くらいかかります。

実験では、被験者に5分間ガムを噛んでもらい、その後に音刺激を与えてP300が出現するまでの時間(認知時間)と、音刺激出現後に右手の人差し指でボタンを押すまでの時間(反応時間)を計測しました。ガムを用いたのは、他の食品では噛み続けることが難しいからです。また、においや味による刺激を避けるため、無味無臭のガムペーストを用いました。比較のために、別の日の同じ時間帯に、①ガムを噛まない、② 口の中になにも含まずあごを動かして噛むまねごとをする、③手指でトントンと机を叩く(タッピング)、という条件でも、同様の実験を行いました。
すると、ガムを噛んだときに「P300」の認知時間や反応時間が最も短縮し、噛む運動をくり返すほど、その効果が顕著に現れたのです。ガムを噛まないときには、認知時間や反応時間に変化が見られませんでした。あごの運動やタッピングでは、認知時間も反応時間も逆に長くなり、くり返すほどその傾向は強くなりました。

「P300」の波形1

「P300」の波形2

※ガムをかむ前の値を0にして、その後の変化を示す。

この実験結果により、よく噛むことが脳を活性化するということが、客観的なデータで証明されたわけです。また、噛むことは、あごを動かしたり指を動かしたりする動作とは異なる、特別な運動であることもわかりました。

特別な運動である「噛むこと」がもたらす、日常的な効果を教えてください。

試験や勉強の前、高速道路を運転する前などに15分ぐらいガムを噛むと、集中力、覚醒といった面でよい影響があるかと思います。特に運転のときは、反応が早くなるので、危険回避に役立つかもしれません。
そのほかの認知力や知能といった分野に関してや、どうして効果が出るのかといったメカニズムの部分については、まだまだ研究の余地があると思います。私たちの研究に限らず、より有用な成果が得られることを期待しています。

柿木 隆介(かきぎ・りゅうすけ)先生

自然科学研究機構・生理学研究所 名誉教授
医学博士
日本神経学会専門医、日本内科学会認定医
(2023年7月現在)

九州大学医学部卒業。神経内科の臨床修練を行うかたわら、脳波研究で学位を得る。ロンドン大学に留学後、佐賀医科大学を経て、1993年より自然科学研究機構・生理学研究所の教授に赴任。脳波に加え脳磁図を主要研究テーマとして研究を遂行。近年は機能的MRI、近赤外線分光法(NIRS)、経頭蓋的磁気刺激法(TMS)などの研究も行う。体性感覚、痛覚などの脳内認知機構の解明や、言語、顔認知などの高次脳機能の解明など、研究テーマは多岐にわたる。学術論文のほかに一般書も多く執筆。著書に『脳にいいこと 悪いこと大全』(文響社)、『どうでもいいことで悩まない技術』(文響社)、『世界に「かゆい」がなくなる日』(ナツメ社)、『もう、人づき合いで悩まない技術 女性のための脳のトリセツ』(扶桑社)、『記憶力の脳科学』(大和書房)、『読むだけでさみしい心が落ち着く本Look at me症候群の処方せん』(日本実業出版社)などがある。