咀嚼とストレス解消のメカニズム

監修:石上 惠一(いしがみ・けいいち)
東京歯科大学特任教授

近年、注目が高まっている「セロトニン」。脳内で働く神経伝達物質で、〝幸せホルモン〟とも呼ばれ感情や気分のコントロールや精神の安定に深く関わっています。セロトニンの分泌が不足すると、ストレスを感じ、うつ病などメンタルの不調に陥る原因にもなります。セロトニンの分泌は意識的に高めることができるため、その方法の一つとして、「噛む」ことが注目されています。

■規則正しいリズム運動が、セロトニン分泌を高める

日光を浴びると私たちの脳内ではセロトニンが分泌されるといわれています。意識的に分泌量を高める方法はさまざまあり、普段の生活の中で簡単にできるものとして、リズム運動があります。運動といっても、ウォーキングやスクワット、自転車こぎなどの軽いリズミカルな運動で十分です。一定のリズムを刻む運動を反復して行うと、セロトニン神経を刺激して分泌が高まります。さらに日常の動作でも一定のリズムで繰り返すものは、刺激として脳に伝わります。そのひとつが、「食べること(咀嚼)」です。
普段の食事で、ある程度歯ごたえのある硬さの食材を選び、噛むことを意識しながら食べるだけでも、セロトニンの分泌に効果的です。つまり、よく噛むことはリズム運動の一つになります。

またリズム運動におけるセロトニン分泌の促進には、動作を続ける時間も大きなポイントです。セロトニンの分泌は、リズム運動を始めて5分くらいから。徐々に濃度が高まり、20〜30分でピークに達し、その状態が2時間ほど続きます。
食事はもちろん、ガムを噛むということも、リズミカルな噛む動作を継続するため、セロトニンの分泌にはとても有効といえます。ただし、一度にたくさんのガムを口の中に入れたり、長時間噛み続けたりすることは、顎関節を痛める可能性もあるので注意が必要です。

■噛むことが、ストレス抑制につながる

人が視覚や聴覚など五感で感じとった刺激が「快」か「不快」かは、脳の「扁桃体」という部位で判断され、大脳に送られます。その情報が「不快」であった場合、また恐怖や不安を感じて交感神経の働きが活発になって放出されたアドレナリンやノンアドレナリンなどのストレス物質が身体に影響を与えます。ストレスがかかった状態でガムを噛んだ実験では、噛むことで偏桃体の活動が低下し、「不快」という信号が脳に送られにくくなり、血中のストレス物質の量が低下することが明らかになっています。

石上先生のポイント解説! その1

ストレスをコントロールするうえでは食事への意識も大切です。
例えば世界で活躍するトップアスリートの場合、栄養バランスをしっかりと計算した食事をとることはもちろん、「よく噛んで食べること」を心がけている方が多いようです。その理由は、噛むことを意識することで自律神経が安定し、競技の緊張の中でもストレスをコントロールでき、高いパフォーマンスの発揮につながると考えられているからです。
筋肉をつくる、骨をつくるなど、身体の成長に必要な食品に関する情報がさまざまなところで取り上げられていますが、闇雲に食事制限をしたり、栄養が偏った食事を続けたりすると、ストレスは高まってしまうので注意しましょう。

■噛むことで、前頭葉を活性化

注意力や集中力をつかさどる前頭葉は、加齢やストレスにより血流がだんだん低下していきます。前頭葉の血流が低下することは認知症、うつ病との関連があることもわかってきています。
最近の研究では、よく噛むとその刺激が脳の中心近くにある「海馬」という部分を活性化し、それが前頭葉にも伝わり、血流量を増やすことが明らかになっています。光トポグラフィ(近赤外光を使って大脳皮質機能を視覚化する機器)を用いて脳の状態を観察した実験では、ガム咀嚼を行うと20分程度で、前頭葉の大部分を占める前頭前野の血流が増加し、活性化することがわかっています。


科学研究費助成事業 研究報告書『ガム咀嚼はストレスを緩和する』 研究代表者 石上惠一

現代社会において、ストレスを全く感じずに生活することは不可能でしょう。重要なのは、ストレスとの付き合い方です。ストレスの軽減・発散についてあれこり考えるよりも、普段の生活から「噛むこと」を意識的に行うだけでも、ストレス軽減につながるといえるでしょう。

石上先生のポイント解説! その2

ガムを用いた咀嚼の効果を見る実験では、ガムを噛まないときに比べて噛んだほうが、足し算引き算などの単純計算の正解率が向上することが明らかになっています。これは、ガムを噛んだことにより脳の血流量が増加して、その結果、集中力がアップしたためと考えられます。
また、噛む習慣がないと、認知症に関係する「アミロイドβ」という物質が脳に蓄積してしまうことがわかっています。最近は軟らかい食べ物が増えていますが、噛むことは、記憶と重要な関係を持つ、脳内の「海馬」の活性化にもつながります。高齢の方はもちろん、年齢に関係なく、「噛むこと」は学習効率のアップにつながりうるといえるでしょう。

石上 惠一(いしがみ・けいいち)

東京歯科大学特任教授 日本オリンピック委員会(JOC)強化スタッフ・スポーツドクター
日本体育協会公認スポーツデンティスト
(2023年7月現在)

1979年に日本大学歯学部を卒業後、1986~88年までU.M.D.S.GUY’S HOSPITAL(UNIV.LONDON)に留学。東京歯科大学助教授などを経て、2001年より東京歯科大学教授(スポーツ歯学研究室主任)。1997年から日本オリンピック委員会(JOC)強化スタッフ・スポーツドクターを務める。日本補綴歯科学会指導医、日本スポーツ歯科医学会認定医ほか認定多数。顎口腔系の状態と全身の運動機能との関係について、幅広く研究を行っている。